憧れの梅原真さんにお会いさせて頂いた。
自分の為の備忘録も兼ねて、記したいと思う。
梅原さんを知らない方は、コチラを参照。
僕が梅原さんを知ったのは、
約8年前の「プロフェッショナル 仕事の流儀」だった。
その当時、「九州×地域活性」を自分の志にしようと決め、
今後の人生を掛けて取り組んでいこうと決めた時だった。
「嫌いだけど愛している」という思いから、
田舎・農業・親という嫌いでもあり、愛している世界を好きに変えようと考えていた。
地元長島に戻り約半年。
昼は農業をしながら、夜は農業を変える為の取り組みを試行錯誤していた。
サツマイモをネットで販売したり、新たな商品開発や販売を企業に相談したり・・・
当時24歳だった僕は、試行錯誤しながらもがき苦しんでいた。
お金も、ネットワークも、知識も、知恵も、能力も無い中もがいていた。
結婚を考えていた彼女に振られ、泣きながら牛に餌をあげていたのを今でも覚えている。
「農業をやりたいんじゃない!農業を変える事をやりたいだ!!」と、
親の跡継ぎとしての期待と、自分のやりたい事が噛み合わず、
何も力を持っていない僕は、今後の先行きが見えない不安や、力の無さに絶望していた。
何をどうしたら良いのか分からず、自分は間違った選択をしているのでは無いかと、
本当にあの当時は絶望していたような記憶がある。
そんな時いつも見ていたプロフェッショナルの流儀で、梅原さんが紹介された。
大号泣だった。
番組の中でも梅原さんが一次産業の事を語りながら泣いていたが、僕も大号泣だった。
「僕がやりたいと思っていた事をやっている人がいる!!」
自分の選択は間違っていたのでは無いか。何をどうしたら良いのか分からない。
と絶望的に過ごしていた僕にとって大きな衝撃だった。
番組が終わってすぐに梅原さんにメールを送っていた。
改めてメールを見返してみると、
番組に感動した事、自分がやっている事、もがき苦しんでいること、
「いつかお会いできる日が来るように頑張ります!」と書いてあった。
勿論、返事は無かったが。
それから梅原さんの事を、色々と調べている中で現在の会社を見つけた。
話を聞かせて下さいと訪ねたのをキッカケに、入社する事になった。
代表が梅原さんと接点があり師匠と仰いでいる人であり、会社のロゴを作って貰っていた。
入社してから、自分の思いを実現するために試行錯誤しながら、気づけば7年。
梅原さんの本や動画などは、仕事に悩んだ時に時折、読み返していた。
半リタイア中の梅原さんと仕事をする機会は無かったが、
代表にも梅原さんに憧れている事は話した事があり、今回打合せに同行させて頂いた。
月曜日に行くことが決まり、お会いする木曜日まで、ずっと寝不足。。。
当日も睡眠不足で、コンディション最悪な中、テレビで見た事のある事務所にお伺いした。
ご一緒した村長の熱い思いに答えるように、色んな話をして下さった。
地栗の事、海士町の事、十和ものさし、砂浜美術館などなど、丁寧に熱心に話してくださった。
砂浜美術館の初期の企画書なども見せて頂いた。
「妄想家だから、色々と話をされるとアイディアが湧き出てくるんや」と3時間近くお話して下さった。
今後考えているアイディアを楽しそうに熱く話して下さる姿が、すごく楽しそうだった。
打合せの後もオススメのお店を予約して下さっており、一緒に飲みに行った。
本や動画で感じていたままの方で嘘が無い人だと感じた。
頭で計算をするのでは無く、心で感じて心で動く人だと感じた。
お店の方や、僕たちにもずっと気を使って下さって、すごく優しい人だと感じた。
色んな裏話や、面白い話をして下さって、人を楽しませるのが大好きな人だと感じた。
「近所のソフトボールに参加したら65歳が最年少で、日本酒を買いに行かされた」という話を、
本当に嬉しそうに楽しそうに話しており、凄い方なのに、先生と呼ばれる人なのに、
「梅ちゃん」「梅さん」と話しかけて貰えるのが凄く好きな人なんだと感じた。
豪快に笑い、本気で腹の立つ事には怒り、ワクワクする事を本気で楽しむ人だった。
緊張していてか、全く話し掛けられなかったけど、沢山勉強させて頂いた。
何か分からないけど最後には泣いてしまい、あの当時のキッカケがあって良かったと思った。
あの時の決断があって良かった。
最後に握手をさせて頂き、梅原さんに恥ずかしくないように。
優しい人でありつつ、自分の信念を実現していける人で有りたいと思う。
そして、今回は同行させて頂いたが、また自分の力で会えるようになりたいと思う。